ランニング中に、バイト先のお客さんであるレズカップルのひとりを見かけて考えたことです。



こんにちは。

さいきん自転車に乗ると高確率で虫が目に入り、今日はランニング中に虫が鼻に入ってきてそのまま体内に取り込んでしまったユキです。

たまたま道端でぶつかった日本人の鼻の中で死んでしまった虫はさぞ無念であることでしょう。

イギリスの大学をもうすぐ卒業します。

わたしは大学のカフェでコーヒーを作っているのですが、走っているときにお客さんの1人をたまたま見かけました。

レズカップルでよく来る人です。


そのときわたしの頭に浮かんだのが、「あ、レズカップルの1人だ」。


そしてその次に浮かんだのが、けっこう印象的だった誰かのツイート。


「ゲイの友達がさー」って友達にゲイいるアピールする人いるけど、どうして性的嗜好で人を形容しなきゃいけないの?わたしってもしかして「高身長理系メガネ男子好きな友達がさー」って言われてるのかな?

六本木主婦(@roppongiwife)さん 


1時間くらいそのツイート探したんですがなかったのでおぼろげな記憶に頼りました。(最初から頼ればよかった)


ほんとその通りですよね。


悪気はなくても、それが「ラベル」になっちゃうんです。

最近はLGBTについての理解がすすみ、偏見みたいなものが薄まってきているかもしれません。

でも、偏見というよりは、その印象(ラベル)だけを持ってしまう風潮はきっとまだありますよね。

例えばある芸能人がカミングアウトをしたとしたら、そのあとその人を見るたびに「この人はゲイだ」って頭にこびりついてしまうような。

受け入れる側がまだ慣れていないから。



友達でも、その人を見た時にそういうラベルを貼ってしまっていたり、その人と話しながら、ゲイだって思うまでではなくても意識をしてしまっている。

まだわたしも慣れていなくて、特別視してしまっているから。



もしわたしがレズビアンだったとしてこのブログ上でそうだと言ったとすると、読者は「このブログを書いている人はレズだ」という印象(ラベル)を持って読むことになるかもしれません。

偏見はもちろんですが、それもいやかもしれません。

セクシャリティがわたしの全てではないのに、そうだと意識して読まれたくはないってかんじ。

カミングアウトが難しいのって、そういう面があるんではないでしょうか。


想像です。


それを利用してキャラを確立している人もいるかもしれないけど。オネエ芸人とか。





何年来の友人だったら、ラベルよりも「その人」が「その人」である印象の方が強いので、そんなことにはならないはず。

だからわたしがセクシャリティについて公言する人を勇気があるなと思うのは、偏見や差別を受けるかもしれないという懸念ではなくて、そういう印象を通して接されてしまうかもしれないよね、という思いから。

一度言ったら一生取り消せないしね。


勇気もなにもそれが自分なんだから、誇りに思うべきだとも思うけど、やっぱり。



同じように、「発達障害です」とか「キリスト教徒です」とか「中国ハーフです」とかが特別視されず、アイデンティティとして堂々と言える日本社会になったらイイですね。


これを書くことによってわたしがこれらを特別視してしまっているという矛盾には、気づいています。

念のため。